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梅雨明け前の休養

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東京都は、文京区にいる。最近気づいた事がある。人間(自分だけかもしれない!)、3日目が肝であるかもしれない、ということに。例えば、放浪を開始する。初日は、高揚感と疲れで1日が過ぎる。2日目は街中で虚無。3日目は自分への問い。ここを上手いこと越えることができたら、いい感じの心持ちのまま行動を続けることができる。気がする。できないこともある。でも気がする。「3日坊主」という言葉があるけれど、逆を言えば、3日を超えられたら、その先はcomfort ゾーンだということなのかもしれない。先のことを考えるよりも、3日目。ここに意識を集中すれば、新しい世界が見える。気がする。

 

動乱の日々と、収束

 

動乱の日々をすごし、ひとときの休憩をしている。そして、また動乱の日々の中へ突っ込んでいく。そんな形を取ろうとしている。山口から、少しずつ東へきた。岡山で、友人と会い語り合った。伊豆長岡で、自然に囲まれた中宿を満喫した。群馬で、断食を試みるが死域に入り無事生還。厚木で、ジャズのセッションに呼んでいただいたき充実した。雨の季節、あちこちを移動するのは苦かな?と思っていたけれど、渦中に入ってしまえばこっちのもの。意外となんとかなるのである。恐ろしいのは、これからの暑さだ。汗が。日差しが。洗濯が。が。思えば4月にバンコクで夏を体験したようなものではあるので、これまたなんとかなってしまうのだろう。

 


移動中、ひたすら北方謙三水滸伝」シリーズを読んでいる。お金があるときは、贅沢してKindleで買って読む。基本は、移動中に図書館へ寄って、そこで読む。気づくと数時間経っている。すごい。自分もすごい。数年前まで、読書の、ドの字もなかった男が、こんなになった。新しい一面を見せちゃった。やばば。水滸伝を読んでいると、果てしなく魅力的な漢たちがでてくる。この好漢たちにくらべて、自分はまだまだである、、、とか思うくらいにはハマっている。以前、誰かが「読む本は英雄叙事詩だけで十分」みたいなことを言っていたけど、わかる気がする。これを読み返すだけでいい気がする。果たして、カッコいい好漢に俺はなれるのか!なりたい!(多分無様なことの方がこれからも多い。笑)

 

 

 

夜明けが待っている


東京での滞留が1週間に近くなる。これからまた、各地を転々とするスタイルに戻る。いくつか訪れるべきポイントは決まっていて、やりたいこともいくらかある。具体的なことはまだ言えないけれど、これからも暫く続くお話だ。とある人から頼まれた。「人からの頼みとあれば、絶対にやり遂げたい」みたいな武士道心がある。もちろんそれで破綻したことは数知れないけれど、人からの頼まれごとが好きなのである。結局この2年、思ったことの一つは、「自分のために生きるのが下手くそ」ということである。

 


夢がない。やりたいことがない。好きなこともそんなにない。探してみたけれど結局はそうだった。「強いて言えばやりたいことはあるけれど、そんなに無理しなくても良いかな〜って思ったりもするし、まあ死ぬまでにできれば御の字くらいで良いんじゃないすか〜?」ぐらいの夢や、やりたいことなら50000個ある。自分のために何かをする、的なサムシングができない。なので、もれなく病む。こいつ(⇦自分のこと)はなんなのだ、と思う。と、同時に、まあそんなもんだよなとも思う。毎日やりたいことをやって、うひょー!とかなっている自分が想像できない。やりたいことをやっていても、うだうだ言い始めるのが自分な気がする。

 


ただ、自分の好きな人のためになら動ける。しかも意気揚々と。もう少し、細かくいうと、「自分の好きな人のために活動することで、自分の中の何かが喜ぶのがわかるから、自分をよろこばせるために動ける」である。これなら、自分の為に生きることができる。好きなものがなければ、好きな人。とかなんとか言っているうちに、好きなものも見つかっちゃう。そんな気がする。側から見たら、「何を当たり前のことを(笑)」と思うかもしれないけれど、人生23年生きてみて、初めてこんなことを考えた。孤独の時間がもたらしてくれた恩恵は侮れない。この下半期は動乱の日々になるだろう。そうなる前の前夜的な休養を満喫している梅雨明けギリギリの東京である。

 

つづく。

お喰らわれご苦労様でした。

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山口県は下松市にいる。約2ヶ月の秋(とき)をこの場所で過ごした。途中、いったん東京へ行ったけれど、コンクリートなジャングルの中では、ウホウホ飛び回り、立ち回れるわけもなく、たった1日でギブアップした。ここにいるよりも、12時間の夜行バスに揺られた方が、まだましだと思い、とんぼ返りをかました。下松は建物が低く、空が高い。夕日がこの上なく綺麗だ。ホタルも見ることができた。何があるわけでもないけれど、すぐそこに何かがある感じ。伝わるだろうか?風が今日も気持ちいい。

 

 

 

オラ、しっかり(ダメな方面も)やってきたべ


大学生の時に、就活を経験した。結果としては、「しっかり一般社会にフィットできなくる」というものだった。なんかいろいろが無理になった。こんなことが人生で一度もなかったものだから、戸惑いに戸惑った。その中でもやろうとしたことは、「自分であり続けること」だったと思う。

 


我ながら自分のワガママは、頭がおかしいと思われてもいいんじゃないか、と言えるものが108個以上(煩悩を超えた!!)あり、その全てを通してきたのではないか。基本的には、自分の弱いところと直面し続けることが多い。特に、マニー関係のことがものすごくひどい。中学校の頃に数学の授業が嫌いになり、それ以来、数字そのものに距離を置いてきたけれど、まさかここまでとは、というぐらいの感じになった。

 


その他、さまざまな弱さを受け入れ、見せ続け、皆さまから超正論なお叱りを受けることも多かった。しっかり言葉は受け止め、反抗もちょっとして、それでも自分を通し続けた。「こう言ったら、喜ぶだろうな、心配かけないだろうな」「こうやるのが正しいんだろうな」そういうこともわかる。しかし、今自分がやりたいことは、言いたいことは、そうではない。その状況がスパルタンであった。

 


リアルなこと(目に見えるものの話)は、得意じゃないらしい。そんな中でも、語り合える友、こんな奴を受け入れてくれる人と出会えた。森の緑が、海の青が、夕日が、星空が綺麗だと思えるようになった(3日ぐらいご飯は食べられなくても生きていけることもわかった)。まだまだ、曲げずに良かったと思えることがある。そんなことをしばらく続けて、気がついたら、そろそろ丸2年になる。もしかしたら、この「どうしようもなく自分であること」からの解放が来るかもしれない。

 

 

変わるとしか思えない。


きっかけはなんてことない。占いを見たのだ。数少ない楽しみのうちのひとつ、「しいたけ占い」を見ていた。なんと、そこにはこの2年間とは変わっていく、と、書かれていたのだ!!!

 

 

https://voguegirl.jp/horoscope/shiitake2019-h2/contents/11aquarius/

 


なんだよ、そんな程度かよ、と、思われるかもしれない。しかし、どうやっても、これがバチコーン!と来るのである。ようやく羽ばたくのが許された、そんな感じがしたのである。解き放たれた気持ちがした。それは間違いではないと思う。どう転がるのかはわからない。ただ、今までとは全くわけが違う世界に飛んでいきそうな気がする。確証はないけれど、確実に予感がする。

 


この2年間で得た(思い出した)教訓の一つに、「目に見えないものこそ大事」というものがある。イケる!そう思ったら、イケるのである。具体例はうまく言えない。文章にするのは難しい。しかし、間違いはない。イケるのだ。今回だと、がらりと変わるのだ。どう変わるかはわからない。ただ、今までと、大前提が変わった。それは違いない。

 

 

 

だから、だからである。ここまでの2年。絶対に無駄ではなかった。見える世界が変わったとまでは言わないけれど、前とは違うところにいる。少なくとも、自分が自分であることに気づいた。それだけでも違う。よくやったよ。お疲れさま。自分では楽しみながらやっていたつもりだけれど、正直つらかったのかもしれない。俺が、荷を下ろしてあげる。次の世界を見せてあげる。ブログに書いて、メモ帳に書き連ねる。自分に向けて、労いをかける。ぜひ楽しみにしていて欲しい。全くうまくいかなくて、野垂死にするなら、そこまでだっということで。

 


つづいてくれ!!!

夕焼け小焼けでまた明日

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現在、広島バスセンターにて、名古屋行きのバスを待っている、その隙に記事を書いてしまおう!ということで、書いている。1ヶ月ぶりにシャバ(人の多いところ)に出た。僕はどちらかというとシティー育ちなので、シティー人間だとつい最近まで思っていた。面白いことに、田舎も相当好きらしい。人が少ない。若い人も見かけない。でも、静か。全てが静か。そういうところも好きだ。シティーも田舎も、どちらもハイブリッド的に人生に組み込むことで、自爆しなくなったら嬉しいなと思う。

 


とか、いってたら、バスに乗り込む時間になった!まずい、このままでは明日の朝、名古屋で、どこかのwi-fiを拾ってアップすることになる!まあそれもいいか!

 

頭の中の孤独


ぼくは、長距離移動みたいなことがとても好きである。なんか、こう、ドラマチック感がある、気がするからである。できれば、外が見える、昼間のバスや、電車が最高だ。窓を見ながら、変わっていく景色とともに、音楽を聴く。最近は山下達郎ブームが来ている。海を見ながら、「Ride on time」を聴く。じわーっと来るものがある。それがまた思い出になる。歌と記憶がリンクする。この感じがとても好きなのである。だから長距離移動が好きなのである。(無理やりまとめた!!!)

 


海で思い出したことをヒトツ。

海を見ていると、切なさを覚える。なぜなんだろう。「一夏が過ぎ去るイメージ」が頭をよぎるからだろうか。ちがう。たぶん、「海で事故があったら、どうにもならないんだろうなぁ」と思うからである。なんか泣きたくなる。誰にもわかってもらえないかもしれないが、好きなのである。

 


似たようなことを、北海道を自転車で走っている時に思った。その日は、朝早くから自転車を漕いでいて、半端ない山道を超えていた。そのあとだった。目の前に見えたのは、左手に海、右手に山、そして誰1人いない道(建物が壊れかかっている)。天気はドス曇り。頭の中では「もし、津波が来たら、逃げれなくて死ぬな。森に迷い込んだら、助けを呼べず死ぬな。」と、思った。助けなんて呼べない。どうしようもなく、ひとりなんだな。そう思った。ひとりって、切ないな。死ぬ時は、ひとりなんだな。というか、最小単位ってひとりだったんだ、家族とか、友達とか、何かしらあると思っていた。ちがう。どこまでも、自分はひとりなんだ。そう感じた。

 


ひとりであることは切ない。さみしい。でも、だから、誰かと会いたい。話したい。一緒にいたい。そう思える。そう思いたい。なかなか今世は、人と話しているようで、人と話せていない感覚を覚えることも少なくないけれど、それでも、少しでもコミュニケーションが取れると嬉しい。まだ人生捨てたもんじゃない、そう思える。

 

 

調練からのアリ視点!

 

そんなことをぶつくさ考えながら、シティーを歩いた。頭で考えすぎた後は、もちろん筋トレ。頭でっかちになった時は、体を動かすことによって、心身のバランスを取る、という、とてつもなくそれっぽい方法である。最近は北方謙三の『水滸伝』を読みすぎて、筋トレのことを「調練」と呼び始めた。今日の調練は、腹筋、腕立て、背筋、逆立ち、の4種目である。筋トレ、というと、何か、おしゃれな匂いがする。意識高い系の人たちによる、お遊び感がある。ぼくはもれなく、調練、とか言っているので、高くなれない。調練、という響きがどこか、スパルタな感じがするのはぼくだけだろうか?水滸伝にて、梁山泊の兵士たちは、下手すると死も覚悟しなければならないような調練を重ねている。ので、ぼくも、限界からプラス10回をなんとしてでも、フォームが崩れまくってもやり通すことにして、実際やりきった。

 

 

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調練メニューの最後、逆立ちをした時、脚が綺麗に揃って、「バランスが取れている!!!」と思ったのもつかの間、脚が後ろに行き、ぶっ倒れた。その時、初めて、夕日に気がついた。空がものすごく綺麗だった。ふぁー!!となった。空を見上げるのはいいなぁ。突然公園にいって、調練して、逆立ちして、とうとうアレだな、と自分でも思いそうだったけれど、空を見て、吹っ飛んだ。でっけえなぁ、と。タカ視点ならぬ、アリ視点だ。視野を広げるには、上から見るよりも、下から見上げたほうがいい。そうか、今の俺は、タカよりもアリなんだ。それもまたいい。しっかり見上げていこう。上から見下ろさず、空の広さを思い出そう。そんなことを思った、とある日だった。

 


つづく!!!

生きる為に死のう。

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山口県は徳山図書館というところからこの記事を書いている。図書館とはいうものの、蔦屋書店と、スターバックスコーヒーが合体して、そこに図書館が付いている、という感じである。何が言いたいかというと、とても開けていてキレイだ。僕は本を読んだり、勉強したり、集中したいときは、ある程度の雑音や、生活音が必要な人間だったなぁ、なんてことを思い出した。いまはひたすら熱中して『水滸伝』を読んでいる。

 

 

与えられるということとは何だろう。

 

山口県に来てから1週間以上が経った。囲ってもらっていただいている。1ヶ月ほど滞在してもいいよ、とも言われている。嬉しい。以前の自分は、与えられることは恥、とまではいかないけれど、半端のない貸しを作ることだと思って、とても嫌だった。なんでも1人でやることが美徳だとそう思っていた。誰の力も借りず、たった1人でもやり抜く。全てにおいて完璧になる。そんなことを、理想にしていた。

 


いまはどうだろう。少なくとも、人から見られて「完璧」と言われるような人にはなりたくねえなと、思うようにはなった。完璧、なんでもできる人、そんなもんはくそくらえ!ぐらいの気持ちがある。なんなのだろう。笑

 


いや、1人でやり抜くというところは変わってはいないんだと思う。ただ、前提が変わった。所属するものがない。会社とか、学校とか、実家とか、そういう隠れ蓑がない。半端なく大げさに言うなれば、地球の上に突っ立っている、「一つの物体」になった。一つの物体のままでも生きる。そう志はある。が、しかし、さっき書いた「完璧になる(ことによって、1人でも生きていく)」ことと、これとは違う気がする。

 

 

 

与えてもらうことの喜びを感じる、これは今までの自分にはなかったことだ。囲ってもらって頂いている場所では、自分でお皿をかた付けようとすると、やめろと言われる。掃除をしようとすると、やめろと言われる。こうなると難しい。ひたすら感謝をするしかないのである。申し訳ない、とは思いつつも、それを言葉にするよりも、ありがとう、だけを伝えなければいけない。これは難しい。

 

 

 

生きる為に死のう。


何が言いたかったのだろう。久しぶりに書いたら、まとめるのが下手だったのが、より下手くそになった。こんなことで悩むことが、去年の今頃、あったのである。そんな時のことを思い出したんだ。

学びの日々である。ずっと同じところにいると、飽きてくる。飽きてくると、失礼になる。失礼になるということは、本気で感謝ができない人間であること、まだまだ未熟なところが多分にあるということ、なのかもしれない。これからまた流浪の旅が続いていく。行きたい場所がいくつかある。行かなければいけないところもいくつかある。6月になったら、やりたいことがある。まだ死ねない。

 


どうしようもなく、自分がダメだと思った日にノートに言葉を書きなぐった。『「死なない為に生き延びる」よりも、「生きる為に死のう」』と書いた。自分で書いていて、説明はできない。また大げさなことを書いてるなぁ俺、と思う。でもなんとなく、そうだよな、と思った俺もいた。

 


つづく!!!

自分の逆を突くのみ

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成田空港の第2ターミナルにいる。「東京にいると俺は腐る!」という直感に助けられて、千葉県に逃げてきた。逃げたのだけれど、逃げ足が早すぎた。フライトは明日の朝なのに、もう着いてしまった。暇だ。ぼくのプランでは、成田駅付近でいい感じに時間を使うつもりだった。成田山を登り、図書館で『水滸伝』を読みあさるつもりだった。しかし、成田山は想像を超えて低く、すぐ終わった。おみくじを横目に「誰かと一緒なら引けたのに、、、」となる。図書館は図書館で、まさかの休館日で、残念ながら行けず。しかし、そのちょっと先に公園を発見した。しかも芝生ありだ。寝っ転がった。目を閉じて、ストレッチをする。体と対話する。痛みのあるところを触ってあげて、いたわる。

 


ぼくは芝生が好きだ。コンクリートの上ばかり歩いていると頭がおかしくなる。芝生の上はフカフカだ。ちょっとチクチクするのもいい。芝生の上で寝てると「何一つ間違っていない」そう思えてくる。好きな時間を過ごすというのは、運を呼び込むことなのかもしれない。起きたら目の前にボールがあった。投げたり、ついたりした。楽しかった。ずっとできると思った。誰かと一緒に遊べたら、もっと楽しいだろうなと思った。『キャストアウェイ』という映画で、主人公が無人島にたどり着いた時、バレーボールを語り相手にしていたのだけれど、なんかその気持ちがわかる。ボールは友達、なのである。

 

 

悪態つき太郎。

図書館に行く前、疲れたので駅前で座っていたら、知らないババア(敢えてババアと書きます)に「めっちゃ邪魔なんだけど」と、ぼくに直接言わない感じで、呟かれた。そして去っていった。顔も服装も歩き方もゾンビだったので「コイツ終わってるな」と思った。餓鬼でもそんなことは言わない。むしろ、彼らの方がGWが明けて楽しそうだ。仕事に行くのがかったるいのはわかる。あさから堂々と椅子に座って、おそらくいつも通っているショートカットコースをふさがれてたのが気にくわないのはわかる。色々あるのはなんか分かる。ただ、無礼なのは許さない。自分のイライラを人にぶつけてはいけない。頼むから、「お前の不幸を人におすそ分けしてくれるな」と思った。

 

 

自分の逆を突くのみ

この間、いつもお世話になっているNさんにお寿司をご馳走になる形でいろんなことを話した。Nさんは基本的に、世の流れの逆を行こうとする。そういう話を聞くと、とても元気になる。いい大人がまだここにもいた!と喜べる。一緒に遊べる(働ける)かもしれない可能性を持っている人と会えることはとてつもなく嬉しい。感謝感激である。

 


とにかく、周りがやらないことをやる。これはぼくにとっても大きく、大事なものである。が、ぼくの考える程度のことは、たぶん世の中では100万人くらいの人がやっている。そんなもんだと思う。これに気づかないと、今度は「周りがやらないことをやる人たちが、やらないことをやる」と、至極面倒くさい感じになる。ぼくにとっての指針は一つ。ぼくがやったことないこと。ぼくの予想の先を行くこと。結局は、自分に立ち返ってくる。そしてそれが一番行きていると実感できる。

 


普通なら空港でボケーっとしながら、暇ならその辺を歩いたり、ご飯食べたり、お土産を買ったり、YouTubeを見たりするのだろう。ここを超えていきたい。ということで、ずっとやりたかったけれど値段を理由に躊躇していた「ファイナルファンタジー5」を、やる。ソシャゲではなく、買う。明日の発着までにクリアする。ナンバリングタイトルを全部やるまでは死ねない。ということで、わけわからない着地を、しましたが、明日以降、九州、中国地方方面へ放浪します!

 


つづく!!!

我が魂はボロ小屋とともに

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群馬県赤城山のおなじみの小屋にいる。平成から令和へと変わるあたらしい節目を山ですごした。実感はほぼ皆無だ。

ここに来ると必ずギターを弾く。前回来たときはビートルズのレット・イット・ビーを練習していたが、一向に上手くなる気配はない。が、なぜか、ゆずのサヨナラバスだけは最初から最後まで弾ける。この曲はぼくが小学生の時、とても好きだった先生がたどたどしくも弾いてくれた曲だ。自分に何かしら縁故のある曲なら弾けるということなのだろうか。なぜかこの曲だけは大丈夫なのである。

 

愛情を込める。


ちょうど1年前、この赤城の家をつかいはじめた。最初は「このオンボロの家で生活するのはタフだぜ、、、」と思っていた。それから少しずつ、部屋の中をそうじしたり、外の庭?を綺麗にしていったり、少しずつ、少しずつ、気持ちをかけてあげることで、今では何の不自由なく生活することができている。

 


じゃあ見た目がすごく変わったのかというと、1年前と比べて、さほど綺麗にはなっていない、というのが本当である。バカな人は「変わってないのかよ笑」と笑うだろう。ぼくはそんな人を笑う。なぜか。それは本当に大切なことが何なのか、わかっていないからである。

 


変わったのはぼくの心だ。ぼくは、この家の庭をほうきで掃いているとき、とても神聖な気持ちになる。まるで庭が愛すべき生き物であるかのように思え、そこに愛情を注いでいる感覚をおぼえる。家の中も同じだ。畳は湿気でボコボコになり、家具もちょっとオンボロだ。しかし、ここ1年、父と僕が結構な時間を過ごしたことにより、生活感が漂っている。そうすると、1年前に感じた「こんなところで生活なんてできるのかよ、、、」というサバイバル意識は薄れる。

 


本当に大事なこと。それは「自分がいかに愛情をかけたか」何だと思う。そして「いかに愛情を持てるか」何だと思う。この家は10年近く放置されてきた。だから老朽化もすごく進んだ。しかしこの1年で様になった。これは愛情を注いだからだ。

少し前に古着のデニムジャケットを買った。やけにしっくりくる。誰かの愛が詰まっている。もう新品の服は買えないかもしれない。特にユニクロや無印は無理だ。使い捨て上等のものに身を包んでいたら、自分まで使い捨て可能な人間になる。せめて「聖なる一つの魂を地に返す」ぐらいのソウルは持っていたい。

 

 

 

そして、そこからさらに進化しようとしている。旧式と新型の融合。これこそが僕の目指したいところだ。今、ここに工房を作りたいと思っている。革製品を作る場所、洋服をリメイクする場所、コーヒーを入れる屋台、キャンプサイトなどなど。この家で使われていた廃材や、廃道具を使いたい。ただ新しくするのではなく、受け継ぐところは受け継いで先に進みたい。そうして愛情を注いだところに、「僕が愛情を注いだ人たち」がくるようなところになれば、それは素晴らしいことに間違いない気がする。

 

 

いま、必要なことは何か。

最近は北方謙三作『三国志』を読んでいる。蜀の劉備という武将は、彼の持つ人道によって仲間を集めるという特徴を持つ。しかし、スタートはわら編みで、無一文みたいなものだった。それが流浪を続けて、仲間と出会い、最後は一国の王として君臨する。今は僕も流浪の身だ。仲間集めをしている最中だとも思う。人間と話せている気がする人間を探す。少しずつ周りが一般的なものに飲み込まれていく中、変わらずに生きていた人にたまに出会える。これほど嬉しいことはない。

 


そういった人と会うとき、大事なのは「自分の中で筋の通った生き方をできているか、人間力を鍛えているか」というところがとても大事になってくる気がする。ぼくは人間力をまだまだ鍛えなくてはいけない。そのために、今できる、やりたいと思うこと、それをやり続けて、さらに強く、謙虚になりたい、そう思う。そしてそれが出来た時、ステキな出会いが待っているのだろう。そう思う。道のりは簡単じゃない。それっぽく働いてお金をもらって老後に備えるよりも、何かもっと大きなものと向き合っている。その道を選んだ自分を間違ってるとは思わない。むしろ、よくぞやったぞ自分と褒めてあげたい、そんな今日この頃である。

 

つづく!!!

誠実であること

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東京での精神修行を終えて、いまは群馬県高崎市にいる。東京をホームと思うとつらくなる。アウェーだと思うとたのしくなる。東京駅の人混みをどうすれば遊べるか考えた結果、ぼくの大好きな「ウォーキング・デッド」に出てくるゾンビワールドにいるのだと思うことにしてみた。ゾンビは群れるのが得意だ。へんに個性を出してはいけない。紛れるのだ。ゾンビみたいな歩き方をして、ちょっと食に飢えている感をだして歩いてみたら、たのしくなった。

 


誠実であること

さきほど、2週間で消えるタトゥーなるものを入れてきた。もう一回言わせてほしい。タトゥーを入れてきた!とうとうきた。小学校の頃、アメリカのプロレスが大好きだったぼくは、選手のタトゥーに憧れた。10年越しの夢を叶えてしまった。ということで、2週間は自由に温泉に入れない。ぼくの中身はなにも変わっていなけれど、温泉に入れない。ちょっぴり悲しい。

 


ピアスを開けたり、指輪をつけたり、髪を染めたり、いろんな形で、自分は他の人と違うのだと主張している人が多い。気がする。気がするだけなので、本当は違うかもしれない。このタトゥーが気に入れば本物のタトゥーを入れようか考えるつもりだ。もしも本物を入れたら、いよいよ人から、そういう目で見られる。ただでさえ適当な生き方を、側から見たらしているのだから(ぼくの中ではしっかり道をたどっている感覚があります!)、とうとう、とうとうである。

 


いかに、誠実であるか。まず挨拶が人とできるか。海外から帰ってきて気づいたのは、国内での挨拶が適当だったこと。顔をみて、感謝の気持ちを伝えないと、たぶん、海外では死ぬ(気がする)。国内では、特に、関東圏では、さらっとクールに流すのがかっこいいらしい。人にぶつかっても、さっと消え、ご飯を食べ終わっても、さっと消える。

 


人の顔をみて、挨拶できるか。人の話をしっかり聞けるか。適当な言葉、行動、筋の通ってない生き方をしていないか。自分に誠実か。そこさえ整えられていれば、タトゥーだろうが何だろうがたぶんオールオッケーなのだと思う。一方これがおざなりになると、「あー、あの人はね〜、、、」ってなる。やっぱりってなる。なあなあな生き方はできない。そういう追い込み漁みたいなものが自分に迫ってきつつある。23歳、さすらい2年目、正念場を迎えている。

 


こんな話を、居酒屋で友人と話していたら、秒速で2週間で消えるタトゥーを通販で頼んでいて、「この人はやっぱり素晴らしいなぁ!」と勝手に感動した。笑

 

つづく!!!