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生きる為に死のう。

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山口県は徳山図書館というところからこの記事を書いている。図書館とはいうものの、蔦屋書店と、スターバックスコーヒーが合体して、そこに図書館が付いている、という感じである。何が言いたいかというと、とても開けていてキレイだ。僕は本を読んだり、勉強したり、集中したいときは、ある程度の雑音や、生活音が必要な人間だったなぁ、なんてことを思い出した。いまはひたすら熱中して『水滸伝』を読んでいる。

 

 

与えられるということとは何だろう。

 

山口県に来てから1週間以上が経った。囲ってもらっていただいている。1ヶ月ほど滞在してもいいよ、とも言われている。嬉しい。以前の自分は、与えられることは恥、とまではいかないけれど、半端のない貸しを作ることだと思って、とても嫌だった。なんでも1人でやることが美徳だとそう思っていた。誰の力も借りず、たった1人でもやり抜く。全てにおいて完璧になる。そんなことを、理想にしていた。

 


いまはどうだろう。少なくとも、人から見られて「完璧」と言われるような人にはなりたくねえなと、思うようにはなった。完璧、なんでもできる人、そんなもんはくそくらえ!ぐらいの気持ちがある。なんなのだろう。笑

 


いや、1人でやり抜くというところは変わってはいないんだと思う。ただ、前提が変わった。所属するものがない。会社とか、学校とか、実家とか、そういう隠れ蓑がない。半端なく大げさに言うなれば、地球の上に突っ立っている、「一つの物体」になった。一つの物体のままでも生きる。そう志はある。が、しかし、さっき書いた「完璧になる(ことによって、1人でも生きていく)」ことと、これとは違う気がする。

 

 

 

与えてもらうことの喜びを感じる、これは今までの自分にはなかったことだ。囲ってもらって頂いている場所では、自分でお皿をかた付けようとすると、やめろと言われる。掃除をしようとすると、やめろと言われる。こうなると難しい。ひたすら感謝をするしかないのである。申し訳ない、とは思いつつも、それを言葉にするよりも、ありがとう、だけを伝えなければいけない。これは難しい。

 

 

 

生きる為に死のう。


何が言いたかったのだろう。久しぶりに書いたら、まとめるのが下手だったのが、より下手くそになった。こんなことで悩むことが、去年の今頃、あったのである。そんな時のことを思い出したんだ。

学びの日々である。ずっと同じところにいると、飽きてくる。飽きてくると、失礼になる。失礼になるということは、本気で感謝ができない人間であること、まだまだ未熟なところが多分にあるということ、なのかもしれない。これからまた流浪の旅が続いていく。行きたい場所がいくつかある。行かなければいけないところもいくつかある。6月になったら、やりたいことがある。まだ死ねない。

 


どうしようもなく、自分がダメだと思った日にノートに言葉を書きなぐった。『「死なない為に生き延びる」よりも、「生きる為に死のう」』と書いた。自分で書いていて、説明はできない。また大げさなことを書いてるなぁ俺、と思う。でもなんとなく、そうだよな、と思った俺もいた。

 


つづく!!!