Pick & POP

Welcome to my page !!

ユー、このままの俺で行っちゃいなヨ

f:id:hasheem32:20180616003219j:image

なななんと、ずっと伸ばして来た髪がとうとう後ろで結べるくらいになってきた。俗に言う(と僕だけが言っている)侍ヘアーである。日本人にロン毛は合わないとか、女の子みたい、とか言われるかもしれないが、まずは試してみる。その上で、良かったら採用、似合わなかったら変える。物は試しである。そしてロン毛など人生に何回できるかわからない(将来ハゲるかもしれない!)ので侍ヘアーに挑戦してみたいと思う。

 

 

何もしないWEEK

 

現在、日本列島は梅雨入りしたということもあり「何もしないWEEK」を実施している。ここまで、群馬県と東京を行き来しながら生活、とか、弾丸西日本ツアー、とか、家事とか、料理とか、誰かと会うとかやってきた。ずっと動いていると、動かなくなった時に謎の罪悪感に襲われる。この手の気持ちに捕まると半端なくお腹が痛くなる傾向にあるというまた厄介な(でもわかりやすい)レーダーが体に備わっている。面白いことにこの罪悪感から逃げようと行動をしても、お腹は痛いままのことが多い。逆に、「もう今は何もしないっ!」と決め込んで開き直った方が以外と気楽だったりする。何かしなきゃいけない→からの何もしてない、の虚無に立ち向かう方法は、認めてあげちゃうなんだと思う。何もしてない自分を責めるのではなく、オッケー!的な感じでウェルカムすればいい。という事で、動きたくない感情を雨のせいにして、「何もしないWEEK」と称して過ごす(予感としてまた動き出す匂いがしている。)

 


ということで早速PS4を買った。自分でももう訳がわからない。でも買ってしまった。1週間丸々ゲームをしているが恐ろしいことにもう飽き始めている。かといってすぐにまた売るのもちょっと賢い使い方じゃない気がしている(実は前にもPS4を買い、そのときは6ヶ月で売った)。いい使い方はないものだろうか。模索中です!(理想はPS4でゲームをしたい方のお家において、僕も遊びに行くがてらゲームをすると言うのが理想です!)

 

 

イチオシYoutuber 『Primitive life』

 

ずっとこのチャンネルをどこかで載せたい載せたいと思っていたまま載せれずにいたのですが、ようやく今回載せるチャンスが回ってきました!!群馬の山に行くと言うとたまに「自給自足すんの?笑」「なんか面白そうだから動画にしてよ!笑」とバカにしたように言われることがあります。正直「ウザいなぁ」とか「俺はお前のモルモットじゃねえ!」とか「ならあんたがやれ!(場所は貸す!)」とこっそり悪態をついているのですが、すでに誰かがやっているのを見せた方が平和な気がするので、それを見て欲しいです!!(その人たちに届け!笑)

 

僕はこのチャンネル関連のDIY形動画が大好きで、見ていると「人間まだまだいけるじゃねえか!!」と勇気が湧いてくると同時に、自分もやって見たい!(特に砂に熱湯をかけてコンクリもどきをつくるやつ)となります。家を建てるとか、池を作るなどは、現代に生きていると「誰かにやってもらわないとできないこと(お金を払って業者さんにやってもらうこと)」と思い込んでしまいますが、彼らは全部自分でやっている。本当はなんだって自分でできるのかもしれません。

 

Primitive Life:Stone Road!

 

ユー、このままの俺で行っちゃいなヨ

 

 

「何もしないWEEK」と言う名前をつけてわざわざ何もしていないこの状態にさえ名前をつけているのには、とてつもない訳がある。それは、ぼくが「何かしていないと罪悪感にかられる病」に侵されているからである。この病は先天性であり治らない(治すもんじゃない)。症状はというと、何もしていないと、暇だー、あー、あっ、やっ、やばい、何もしてない、何かしなきゃ、ああ、う、うぁぁぁぁぁぁぁ!!という強迫観念にやられてしまうという厄介な病だ。何かしているときはいいが、何もしなくなると一気に不安になり、不安から逃れたいと思う気持ちから、行動に移って行く。1週間前の僕はまさにそれで、弾丸西日本ツアーを終えて東京に戻ったその日から連チャンで知人に会い、ご飯やらお話やらをしていた。ちょっとこの辺から「次は誰かに会わなきゃ(なんもやってない自分になっちゃうから)死ぬ」となり始めていたのである。

 

「何もしていない自分」になるのが怖くて人と会うとか、これはヤバすぎるぞ!と感じたので一旦シャットアウトする方向に舵を切った。シャットアウトして1人になり、ベクトルを自分に向け治す事で改めて自分の道を拓くためである。そしてただ何もしていないと罪悪感に蝕まれてしまうので、「何もしないWEEK」と名付けて、何もしていないことさえ行動に入れてしまい、自分を圧倒的に信じてあげることを最優先することにしたのだ。

 

チームワークがこれからの目標!みたいなことを以前の記事で書いておきながら早速その言葉に捕まるという、高速自爆をかました僕はチームワークの意味を履き違えていたのかもしれない。チームワークというと誰かと一緒にやる事を指すが、僕が目指したいチームワークは個人個人が好き勝手に生きる。それが結果として他の人にも影響していい感じに回る(そして地球全体がいい感じに回る!)的なのが理想だと思った。あくまで最小単位は1人。そこを忘れずに、でもみんなとともに前に突き進む。そういう姿勢でありたいのだと思った。僕に今できることは自分にしっかり集中する。そして次なる世界の発見に向けて蓄えをすることである。人類全体でのいや、地球全体でのチームワークを目指し奮闘することが、僕にできることなのかもしれない(とか大げさな事を言っているが、今やっているゲームがスケールデカ目の話なのでモロに影響されている)。 

 

話がこんがらがった。つまりはだ。何もしてなくていいのである。今自分がこうしている間に誰々は何かしているとか、俺は何の役にもたってないとか、そういう事を思う必要はない。今そういうターンなのだ。ここまでの自分を見てみろ。結構それなりにずっと動いていないか?心の中にいる(僕が勝手に作り出した)ジャニーさんが僕にいう。「ユー、このままの俺で行っちゃいなヨ」と。

わかった。ジャニーさんがいうなら間違い無い。このままの俺で行ってみる。こうした方が得だの、こうした方が将来役立つだの、何もしてない自分責めるだな、そんなことを考えて、言うのは簡単だ。悪いけどそれなり頭は回るので打算的なことはいくらでも考えられる。今は本能に身をまかせるのだ。その先に見える世界はどうなっているのか、今こそそこに期待するのだ。自分を信じて、ひたすらゲームして、気が済んだら次に行ってみよう(60時間プレイしてもクリアしきれないゲームを買ってしまったのはミスだった、、、)

 

つづく!!!

 

 

 

 

歌は(世界ではなく)僕を救う

「さすらい」とか言い始めてから早2ヶ月、すでに色々ストーリーが出来上がってきており、その続編となる構想は頭の中に存在する。毎回テーマやタイトルを(後付けだけど)つけている。なんかこの感じを客観的にみると、今自分がやっている生き方はショーなのかもしれないとか思い始めている。本来ショーは誰かに見てもらうことを前提として行われるが、僕のショーの観客は僕自身だ。僕自身が見て、勇気が湧いたり、笑ったり、泣いたり、そんなストーリーをこれから紡ぐことができたらいいなと思う。そんなストーリー作りに必要となるのはまずテーマソングだと(なぜか)思った。

勝手ながら奥田民生の『さすらい』をテーマソングに添えて、気持ちは僕の大好きな番組『出川哲郎の充電バイクの旅』な感じで行こうと思う。

 


東京に帰ってきて数日だが、早速会いたい人に会いに行くDaysを送っており、非常に精神世界が充実している時間を過ごせている。僕には社会的なボディーガード(お金、会社、保険?、パートナー)がいないので、もれなく明日野垂れ死んでいる可能性も低くはない。なのであんまり先のことは考えることができない。死ぬ前に会いたい人に会うという感じでやっている。面白いことに人と会って話すとちょっと生きる勇気が湧いてくる。僕は基本的に将来を見据えることが苦手だ。できないこともないけど、自分で作った夢や目標に縛られることが多く、「目標とかウザッ!」と逆ギレを始める。大きい夢はもちろん長期的な目標だって考えることはできない。それならば!ということで毎日毎日出来ることを積み重ね(なにもしないグータラな日も積み重ね)、やるしかないのである。これから先僕はいったいどうなってしまうのだろうか。

 

さすらおう この世界中を 転がり続けて歌うよ 

旅路の歌を

 

奥田民生『さすらい』

 

 

歌は【僕を】救う

昨日気づいたら4時間もYoutubeで歌を見漁っていた。深夜を回っていたので小声で歌う。

好きなことは何か、と聞かれたら間違いなく歌うことだという。歌っている時だけはなにも考えなくていいし、言葉にできない不思議な気持ちになる。僕は特別歌が上手いわけではないが、歌う時に自分の体や顔の筋肉などを意識している。自分の体を通して出される声に対して、どうしたら無理がないように出来るか、どうしたら歌詞にあうイメージで歌えるか、感覚的に意識しながら歌っている時、自分をチューニングできている気がする。外の世界に向いていたベクトルを自分自身に戻すことができる気がするのだ。

人によってはチューニング方法が旅であったり、絵を描くことであったり、物を書くことだったりするのかもしれない。僕はどうやら歌が大きなところにあるのかもしれない。

 


もう一つ歌には強みがあると思う。それは、日々の不安や恐れ、焦りをひとまず置いて先に進める、ことだと思う。街を散歩しているとそこらかしこにすーぐソリューションや人生の攻略本的なものがあることに気づく。たしかに各々の問題を解決を問題を根本から解決するのは結構だけど、何かそこにはギスギスした雰囲気を感じる。歌っている時は問題みたいなのを一時的に忘れさせてくれる。カラオケなら何時間かの間、いろんなことから僕を遠ざけてくれる。そして面白いことに、歌い終わった後自分を振り返ると「あれ?問題とかなくね?!」みたいになることも少なくない。なんかこう無理に自分を変えるのではなく、歌にちょっと救いを求めた結果、今のままの自分でもいけるぞ!とさせてくれる力が歌には働いているのではないかと思った。

 


日曜日に岡山で焼肉をご馳走になってから、久しぶりにカラオケに行き歌いまくった。最後の曲はSMAPのシェイクで、替え歌をした彼は「明日は仕事だ 休みじゃない」と歌った(本物は、明日は休みだ 仕事もない)。カラオケを出た後「シェイクって週末の歌だけど、今日週明けじゃーん!」とかいってバカ笑いしていた。そんなしょうもないコトを深夜の12時過ぎに言いながらも、15曲ぐらい回して歌いまくったことにより気分は最高だ。確実に歌は僕を救っている。

 


番外編「24時間孤独ライブ~歌は俺を救う~」

群馬にいた時、「歌うこと大好きなのは自分でもよく分かってるけど、そうしたら24時間ぶっ続けで歌えるんじゃない???!!!」という仮説を立て、勝手に誰にも配信しない形で番組を行った。なんの準備もしっかりしなかった結果、5時間ぐらいで喉がおかしくなり、6時間で終了した。これ以上歌ったら喉が爆発すると思ったのでおしまい。気持ちの面では全然歌い足りないくらいだったが、深夜に敢行したというのもあって体の方が先に根をあげた。皆さんもぜひ(?)お時間があったらやってみてください!笑

 


と、ここまで書いてちょっとこれからの話を言葉にしていきたい。言葉にしたら少し実現に近づきそうな気がするからである。

今、頭の中にある構想としては、スペインに1ヶ月ほど滞在したいな、ということと、自転車に荷台をつけ移動販売?チックなことをすること、村を作ること?、コールドストーンに対抗しない形で歌いながらなにかを提供できる店、とかである。今スペインが自分の中でホットだ。さてどうなっていくのか、どういうストーリーを紡いでいくのか。ぱっと見バラバラな点の集まりかもしれないがそれをつないでいった時、何かが出来上がっているのかもしれない。(出来上がっていないかもしれない!)

 


つづく!!!

日曜日のSHAKE

f:id:hasheem32:20180604153726j:image
昨日、山口県下松市から、広島を経由して岡山に来た。電車とバスの乗り継ぎは意外といけるもので、窓から見える景色を見ながら、「おれは今さすらっている、、、」という半分気持ちよく、半分気持ち悪い浸り方をしながら移動する。今回の目的は岡山に住んでいる友達D君に会いに行くことだった。右手にリンゴと夏みかんの詰まった紙袋を下げて向かう。結果から言うと彼との時間は最高なものとなった。

話してみて面白かったことを書きます。

 

 

hasheem32.hatenablog.com

 

 

1.世はJoyだ!

D君と出会う場所を決めて、彼はそこに自転車で颯爽と現れた。大学の時と変わらず元気そうでなによりだった。岡山のレンタサイクル「モモチャリ」を僕は使い、彼とともに岡山周辺をサイクリングしてみようか!と動き出したところ、突然彼の仕事用スマホに連絡が入り、お互い少しざわつく。いろいろな細かいことは省くが、まとめると、仕事上の話で、謝罪メールを書かなくてはいけないことになってしまったらしい。完全に動揺しているD君とともに「とりあえず店に入ろう!」ということになり、焼肉屋へ行く。席につき彼のメール姿をそっと見つめる。と、彼が「こういうの苦手なんだよね~」とメールを見せてくれたので、なぜか僕から情景反射的に「こういう時こそJoyで行こうぜ!!」という言葉が口をでた。そうしたら一気に空間の雰囲気が変わった。不穏な空気が流れる時こそJoyだ。その後赤ペン先生的なノリで「おれ添削してあげるよ!」となったり、彼も、確かに!!!みたいになり結果モヤモヤが溶けたことで、美味しい焼肉を食べることができた。

 

 

 

別に何かいいことを言おうとして「Joyだ!」となった訳ではない。なぜだろうか。最初はメールの文面を見て僕も真面目に考えていた。せっかく2人いるんだから共同作業でメールを完成させたい!と僕は思い、気づいたら気持ちが結構Joy寄りになっていた。ので溢れた気持ちが思わず口をでたのだと思う。このあとD君とずっと「世はJoyだ!!!」みたいになって、2人の中での急上昇ワードになった。

 

「仕事として真面目にやらなければいけない」みたいな雰囲気はいろんな場面いろんなことで、僕も感じ他人にも感じてきたけれど、もしかしたら仕事の根本にあるのはJoy(楽しむこと)であり、「ちょっと腰が引けて嫌だな~」と思っていることでも、「よし、やってみるか!」と前向きになる可能性を秘めているのかもしれない。完全に節穴だった。

 

2.チームプレーがだいじだそうです。

 

 

hasheem32.hatenablog.com

 


ドラゴンヘッドとドラゴンテイルという占い(?)をたまたま発見してやってみた。そこには直すべきところとして「なんでも1人でやりすぎるところ」、伸ばしていきたいところは「チームプレー」だと書かれていた。

 


チームプレーというと僕がイメージするのはスポーツだったり会社だったりする。何かわかりやすい括りの中で役割分担をしてやって行く。がしかし、今回の西日本ツアーを通して、違う形でのチームプレーって存在するんじゃないかという気がしてきた。

 

 

 今会社で働いている人たちは基本的に仕事を同じ場所でして、お金をもらっている。そこでの生活はやりたいことがあるのかないのか知らないけれど、場所と経験では限定的ななものを感じる。一方好きなようにあっちこっち動き回れる代わりに全く金がなく、死ぬぅと日々なっている僕がいる。

今まで異物としての生き方だと自分のことを卑下してきたのだけれど、そうじゃないのかもしれない気がしている。ちょうどいい感じに働いている人にはできないことをできる。例えば移動が最たるもので、その人が見れない景色、できない体験をぼくが担っている。そう考えると、優越感ではなく、一緒に生きている感じがした。

 

全く話はズレるのだが、先日広島県で会いたい人に連絡したところ、なんとスペインにいるということでお断られた。会えなかったことが残念と言うよりは、僕が行って見たい国No.1スペインに行っていることが嬉しかった。ぼくもスペインに行きたくなった。その人から僕は夢をもらったのでこれもチームプレーだ。

実は友人と大学の時から一緒に行こうと言い続けて実現しなかったスペインへの旅をもう一回考え直しても良いかもしれない(彼もさすらっているらしい!)。こういうチームプレーもありかもしれない。

 

 

3.何者にもならない

 

D君に「『何者』っていう映画みた?」と聞かれた。名前だけは聞いたことがある。教えてもらった話をざっくりまとめると、人は皆何者かになろうとしていて、それを就活を使って表現した、作品らしい。見たことがないので映画について詳しくは語れないが、何者にならなければいけないみたいな感覚ってとてもわかる気がする。仕事があって、金があって、家族がいて、フォロワーがいて、海外移住して、独立・起業して。何か動き続けていないとダメで、何かを成し遂げていないと無価値で。特に僕の場合、演劇やアカペラをやっていてこの脅迫概念に迫られていたことを思い出す。観客の入らない公演・ライブには価値がない。実績を上げないといい場所で舞台ができない・歌えない。他の世界でも往々にしてあるのだろうか?

 


D君曰く、何かを成し遂げても先がまた現れてくるループから抜け出せそうにない、と話してくれた。漫画『バガボンド』でいう武蔵がひたすら天下無双とは何かを求めて斬り合いをしている様子と頭の中で重なった。自分の強さを探すために斬り合い続ける武蔵。そんな武蔵に切られた準ライバル?辻風黄平は「これで殺し合いの螺旋は降りた」と一種の清々しさを込めた言葉をいう。人を殺すことに生きる道を見出して来たのに、殺されたことにより光を見た黄平。その意味が分からずに切り続ける武蔵。武蔵の中では殺しの螺旋が続いている。そんな様子が彼の話を聞いて頭の中で連想された。ぼくたちはいつまで外側に張り付いたもの、見えない先を求め続けるのだろうか。いつまで自らの力を主張することで生きる道を見つけ出すのか。そしてこの螺旋から降りることはできるのだろうか。その先はあるのだろうか。

 

 

 

hasheem32.hatenablog.com

 


僕自身、何者かにはなれなそうな気がする。理由は、単純に自分をよく見せることが下手くそすぎる。自分を何者かに見せようとしてもネットを使った発信力もなければ、人から信頼される的な影響力もない。変にうまく見せようとすると気持ち悪い感じになる。そこで僕が打ち出したのは「何者にもならない」である。ただそこに在る者としていること。何か目指すのであればそうなりたい。

 

最近自分が何者かで在るかを頑張って示している人が多い、と感じるのは僕だけではないのではないでしょうか?なんならこれからフリーランスの人とか起業する人なんてのは当たり前になってきて、もっと自分にはこれくらいの価値があって、スキルがあって、フォロワーがいて、年収があって、みたいなのを主張しなければいけない人が増えるのではないかとすら思います。これからの時代はこうなる、的なことを書いたがこれはカッコつけで言ってみたいだけで、単純に「みんなと同じはイヤー!」というお子ちゃまな理由が本当である。何者にもならない先に残るのは一体なんなのだろうか。

 

 

 

焼肉を彼にご馳走になり、自宅にまであげさせてくれた(なんとこの日彼は布団を用意してくれて泊まらせてくれました、、、!!ありがとうございます!!!)。シャワーを浴びたところで、なぜか歌いたくなる。カラオケに行くためだけに外出する。岡山の夜は静かで良い。語りながら夜道を歩き、一時間みっちり歌いこんで最高の時間を過ごしたのだった。次の日仕事があるというのに、夜中まで一緒に過してくれたD君に感動した、そんな1日だった。

 


つづく!!!

会いたいと思える人が一人でもいることに賭ける

 


今日も山口県は下松市でおばあちゃんの家に居候している。ありがたいことにご飯はもちろん、コーヒーやらお菓子やらも頂き、生活的には何不自由ないところに居させてもらえている。いとこの家族が土曜日に勢ぞろいするということでそれまではこちらにいさせてもらい、それ以降はまた移動する生活が始まると思われる。

 

f:id:hasheem32:20180603143914j:image

f:id:hasheem32:20180603143921j:image

f:id:hasheem32:20180603143927j:image


光市の総合公園には綺麗な花が咲いていた

 

f:id:hasheem32:20180603143950j:image

f:id:hasheem32:20180603143954j:image


おばあちゃんは更地からお花畑やら畑やらを作ったらしい

 

会いたいと思える人が一人でもいることに賭ける。


これから移動する先はさまざまで、基本的には僕が会いたいと思っている人が居るところへ行き、あってご飯でもしながらお話しでもしたいなと思っている。いま、この「会いたいと思う人」がいることって結構大事なんじゃないかな?と思う。

 


僕は性格上、1人でいることが好きなタイプなのだが、その癖して1人の時間が長すぎると「俺って誰からも誘われないしぼっちかよガビーン」みたいに落ちるときがある(そういう時は大抵お腹が空いてるか、歩き過ぎの時である)。この「ぼっちかよガビーン」のメンタルになることって僕だけではないんじゃないだろうかと思ったりする。ひとりでに勝手にやられちゃってるパターンは、誰にでも当てはまる瞬間ってあるのではないかと思う。やられちゃう思考回路が成立してしまう理由としては、たぶん、「俺って誰からも必要とされていないんだ、、、」から来る不甲斐なさ、価値の欠如みたいなのを勝手に感じてしまうからなのだと思う。みなさんはどうか知らないが、僕はこのドツボに頻繁にはまりそうになる。ドツボから抜け出そうとすると「どうすれば人から必要とされるのか」を考え出すことがある。が、しかし、冷静になるとこれはダサいなと思った。

 


これは「周りから必要とされていない自分」を勝手に自らの頭の中に作って、自爆しているだけだ。会いたいと言ってくれる人がいなくたっていいじゃないか。1人の時間だってめちゃくちゃ大切だし、たくさん知り合いがいていつも誰かと会ってる人を見ても「うわべだけで薄っぺらそ~」とか意地悪なことを思うことだってある。そこで僕は「会いたいと思ってくれる人が多い」ことよりも、自分の中に「会いたいと思う人」が1人でもいることの方に価値があると賭けたい。愛されることよりも自分が愛すことに価値を置きたい。こうすればモテる!的なHow to (どうすれば愛されるか)が溢れている中、その逆(どうすれば愛せるか)はあまり見かけない。「モテる」には打算性が入り込み、その逆は無償の愛感がある。絶対できたらかっこいい。ただ愛を伝えるために「会いたい人」に会いに行く。そんな西日本ツアーにしたいと思う。

 

 

とかどうとか散々言っておきながら、会いたいと言ってくれる人が現れるとバカみたい喜ぶ。メチャクチャに嬉しい。東京に帰ったら会いたいと言ってくれてる人(僕も会いたいと思ってはいたが)の元へ一直線に馳せ参じようと思う。

 

つづく!!!

ホタルはどうでしょうか?

前に自分の書いた書いたブログを見返す。なんかいい子ちゃんぶってる気がした。キモっ!と思った。それっぽいことが並べてあるけれど、「本当にそう~?」と低めの声でささやくマサツグ君がいる。日々生活している時の、人と話している時の俺ってこんな感じ??と言うマサツグ君がいる。そんなことを思いながら、それっぽいことを言う前に現在の自分を振り返れよ、的なことをささやくマサツグ君がいる。

3番目のマサツグ君に従う。従って書いていこう。

 

 

 

 

おばあちゃんの家に行く。

 


現在、山口県下松市にある僕のおばあちゃん家に泊めていただいている。博多からの高速バスの途中休憩の際に寄った道の駅でお花を買い、見事に全所持金を0円にしていった。すっからかんになりました!(なんならカードの支払いもあるのでマイナスからの這い上がり人生である。)金がないことに絶望はしていない。むしろお花をおばあちゃんに渡したところ花瓶に生けてくれ、とても喜んでくれたので、すっからかんになったけれども、心はイェーイ!のVサインだ。

 

 


おばあちゃんと話を久しぶりにしていたのだが、なんと、衝撃の事実を聞かされることになった。僕は片方のおじいちゃんには会ったことがない。父親が10の時にいわゆるバニッシュメントを決め込んだらしい。その理由はお金で、結構法的にアウトなことをしたからだと聞いた。主にはギャンブル系らしいのだが、この話を聞きながら、うわっ、俺にもこの血が流れているのか!と焦った。自分を振り返る。パチンコ、スロットはやらない、競馬、ボートもやらない。ゲーセンも行かない。ホッとした瞬間にハッとする。「あ、今の俺の生き方そのものがギャンブルだ!」と気づく。まさかのDNAに焦り(半分爆笑し)、自分のルーツを知ると言う意外な着地に、まだまだ面白知らないことはたくさんあるな!と思った。

 

 


ありがたいことにこの日は昼ごはんをご馳走していただき、夜は近くの回転寿司でいとこの家族にご馳走してもらい、お菓子もコーヒーもいただき、たくさん話してくれて、ほんと感謝しかないし、なんなら感謝が足りていない、、、やばいぜ、、、と思った。ということで所持金がないままだがなんとか寝床と食には困らない1日となった。

 

 

 

 

今この記事を下松市内のモールのカフェで書いている。金のない僕がなぜカフェに居られるかというと、ほんとうにほんとうにほんとーにありがたいことに、おばあちゃんから少々お小遣いを頂いたのだ。情けねぇとなる一方でありがとうございますっ!!!!!!!!!!!!!!だ。頂いたお金は、カードの返済、ではなく(ここ大事!)、中国地方および関西地方にいる僕が「会いたい!」と思う方のところへ行く分の費用としたいと思います。ということで、なんとかお金に関しては一命をとりとめているというのが現状だ。

 

 


ホタルはいかがでしょうか?

 

 

最後に面白い提案して今回は終わりにしたいと思う。その辺の裏道にホタルが飛んでる川があると、いとこの三女が教えてくれた。ということでみんなで寿司を食べてからそこに向かったのだが、半端なく良かったのだ。僕が最後に見たホタルは自宅の近く、椿山荘というホテルの庭園にホタルがいて、それを家族で見に行った時だった。人も多いし、いまいち飛んでるかどうかわからないし、なによりもその時(僕は小学3年生くらい)は虫に興味がなかった。

 

f:id:hasheem32:20180603143724j:image


22歳の今、果てしなくホタルに感動している。すごい綺麗だった。ホタルやその川が綺麗なのはもちろん、「虫に興味あるじゃん、俺!」とということにもブルってる。どうですか?皆さんはホタル、どうですか??意外とホタルの存在自体忘れていませんか?(←ホタル愛好家みたいに聞こえる笑)。ぜひ大切な人(家族やパートナー、友人など)と一緒に「ホタルを見に行く」というのはどうでしょうか??イルミネーション、夜景もいいですが、蛍の光を見ていると「うわ、無造作に動いている!」となります。それっぽい言葉にまとめると「自然を感じれます」。ちなみに朝見たドキュメンタリー番組でもホタルを取り上げていて、それ曰く、ホタルシーズンはまさに今らしいです!!!個人的にとても良かったので、もし、この僕が、誰か好きな人とデート、みたいなことになったらまずはホタルを見に行きたいなと思いました。

 

 


つづく!!!

コミュニケーションを取りたいな

※これは5/30の博多→下松間の高速バスで書いた記事です!

 

f:id:hasheem32:20180531134921j:image

 

 

僕は今、話したい

なぜなのだろうか、自分で気がついた時には、僕はスキルやお金の稼ぎ方など実用的なことに関することよりも、どうして人は〇〇するのだろうか、と言った内面の精神性を意識していた。日々いろんな方と話す過程でどうやら僕はこの精神性について熱く楽しく議論できる人といる方が楽しいと感じる。それが各々の経験から語られる話だとより、おもしれえな!となる。

 


以前、「シェイクスピアの英語教材」的な本を読んだ時に、序文かあとがきに興味深いことが書かれていた。シェイクスピアの作品は言葉遊びがふんだんに使われている(実際松岡和子さん訳の文庫にはたくさん脚注が使われている)。その背景には当時の時代背景が絡んでいるらしい。どうやらその本によると1600年前後のイギリスでは暇をつぶすことの1つに「おしゃべり」をしていたらしい。何だろうか、今イメージするならば下町のおじちゃんが街角であってから立ち話に花が咲いちゃう的なやつなのだろうか。その「おしゃべり」過程で言葉のありようが変わり、1つの単語に数個の意味が付いてくるようになった、のだという。

シェイクスピアの戯曲に書かれている言葉たちはある意味心理を捉えているものが多い気がする。それは「おしゃべり」という暇つぶしを重ねて研鑽した結果、まだ発見されていない感情や現象に言葉を見つけることができたからなのだろうか。もしそうだとしたらとても興味深いと思った。

 


稀に、話していてだんだん相手が「私とは何なのだろうか?」的な問いに入ってしまうことがある。これはもう禅病である。禅病とは本来自分見つめ直すはずの禅をしすぎて、悩みのループにはまってしまうことらしい。僕もよくハマりそうになる。こういう時は悩み尽くすよりも無理やり散歩や、食事や、歌い始めるのが僕にはよく効いた。初めはどれも悩んだまま始まる。ひたすら歩いているとだんだん足が疲れてきて「悩むとかそういうのより足痛い!」となり、カフェに入って休んで「お腹すいた!」となり、お腹いっぱいになってくると「レッツシンギング!」となり、もう考え事がどうでもよくなる。

 


言葉を改めるなら、僕は日々頭の中で「悩む」というよりは「問い」を投げかけている。悩むという言葉にはどこかマイナスな意味を感じる。他人が助けの手を差し伸べたくなってしまうような、解決することが正解のような、そんなニュアンスがある気がする。問いを続けることで、自分なりの説を作っていき、もしかしたら当てはまるかも!当てはまらないかも!を考える。これが結構楽しかったりする。このオリジナルの説を他人と共有できた時に生まれるあの感じがとても好きだ。頑張って上を見上げるわけでもない、自分を卑下して下に見ることもない。あくまでニュートラルでいることが精神性を意識する者にとってのアンサーになりうるのかもしれない。

 

 

 

面白いことに僕が出会った中で、自分の生き方を全肯定できる人間が数人いた。彼らもそれなりに考えているのだろうが勝手に自分で先に進んでいく。以前あった人は、一人暮らしが怖いと散々喚き、メチャクチャに泣いて、死ぬぅ!みたいになってたくせに次の日にはケロッとしちゃう人もいた。しかしこれはとても道理に沿っているなと思った。感情を出し切るという行動そのものもそうなのだが、答えは多分各々の中にあって、外側にあるのではないのだと思う。世間では「こうした方がいい」「こうするのが正解だ」的な人生攻略本が本屋だったりテレビだったりネットだったりに溢れている。そうしたものをキッカケにするのはいいと思うが最終的にたどり着くのは、「自分」が何を選択するのか、であることを忘れてはいけないのだと思う。勝手な偏見だが自分で先に進んじゃう系の人は世間の動向に疎く、型破りなクレイジーさが漂ってる(気がする)。そして自分の好き勝手生きているように一見みられるものの、そこには自らへの奢りや見せびらかしの態度はなく、自分であることの誇りが見える。いろんな人がいて、この世の中は回っているのだろうなと思う。ので、僕みたいな謎の生き方をしている人がいてもいいのかも!と自分に圧倒的肯定感を出してあげています!

 


上に書いてあるようなことを昨日福岡のゲストハウス「TONAGI hostel&cafe」のJさんとお話ししていて思って、思い出した。とても話していて楽しかった。また会って、お互いに新たに発見した感情や世界の見方を話し合いたい。福岡へ来た時はここに来ればいい!的な安心感を得ることができたので今回の福岡出兵は成功したのではないだろうか。昨日買った『夜と霧』をJさんに手渡して去る。

 


そして山口ついた今、防府の道の駅にてひまわりとガーベラを買ってもれなく残金が0になった。残金がなくなったことよりも、お花が安く、しかもいっぱい買えたことが嬉しい。東京だと同じ量で1500円くらいする。さてこのお花を持っておばあちゃんの元へ馳せ参じようではないか。

 


つづく!!

今を生きることから。

まずは福岡での1日を、、、

2日連続でブログを書くなんて我ながら珍しい。ゲストハウスに今日は泊まる。一階部分はブックカフェみたいになっており、なんとPS4やギターも置いてある。いいね!って感じの空気感に包まれながら記事を書いていく。

紙に利用者記入の中に職業の欄が登場し、おお、書けないぞ!となった。いろんな方から日々、どうしてるの?的な問いに対して、さすらってます!みたいなことを言ってはいるが、最近この「さすらい」というワードに対して少し違和感を感じている。「さすらい」という言葉にはどこか彷徨っているイメージがある気がする。他人から見たらそうなのかもしれないけれど、自分の中では彷徨ってはいないつもりだ。果たしてじゃあ今の自分にどんな新しい言葉をつけてあげれば良いのだろうか。それを見つけるのが新しいトピックスなのかもしれない。

 

福岡空港から博多駅まで歩く。バスに追い越される。バスに乗っている子供が僕を見ている。僕ははにかむ。子供がはにかみ返してきた。これだけのことだが、最高のスタートは切れた。(のちに前日の徹夜と、歩きすぎと、にやられてグロッキーになることは詳しく書かない。)

 

朝ごはん、昼ごはんを食べる時間をタイミング的に逃してしまい、結果イオンでリンゴを丸々1個買い、それを丸かじりしながら福岡の街を歩くということをしていた。視線を感じる。リンゴをかじるのなんて初めてのくせして、さも「いつも通りですけど??」的な雰囲気を醸し出しているところがキモである。うーん、これは側から見たら立派な「さすらい」なのかもしれない。リンゴが美味しかった。

 

 

フランクルの『夜と霧』をカフェに入って読む。アウシュビッツ等の収容所での話を読みながら心を揺さぶられている傍、隣で車の保険の話をしているのが聞こえてきた。もしも事故ったら、もしもやっかまれたら、もしももしも。

もしもなんていう言葉を使った仕事が成立するのは平和の証なのかもしれない。収容所でのいつ死ぬかわからない、明日死ぬかもしれない話を読んでいたばかりに、なにかすごいギャップを感じた。またそれが、保険のおばさんがとても煽ってるように僕には見えたのもあるのかもしれない。話はズレるが、この間保険会社から父宛に電話があり、僕が代わりに出た。なぜか僕の名前を相手は知っており、「仕事はなにしてる?」と聞かれた。「何もしてないです(キリッ!)」と答えた。たじろがれた。

 

今を生きることから。

 

ついさっきまで半端なく「やばい!!!」と激しく動揺していた。なんと所持金がジャスト300円になったのである。面白すぎる。とうとうここまできてしまった。元から所持金が少なかったのは間違いなかった。ので、「残りは山口県にいるおばあちゃんに会いにいく分にしよう!」となり、もれなく無の方に舵をとることにした。チケットを買った矢先、自分でお金を払ったはずなのに「死ぬ、死ぬぅ!!!」となっていた。ここで大事なのは見方の転換である。先がないのなら、先を考えず今に集中するのが最善の策ではないか。結果、「今出来ることをやったら先が見える(かも!)」となった。しっかり「ヤバイ!!!」を感じてから「今だ!!!」になった自分を褒めてあげたい。

 


さてここからどうなるのか。フランクルはいう。

 


もういい加減生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、といかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることに他ならない。

 


どう行動するのかが大事だ。まずはおばあちゃんに会いにいく、そしてその時間を徹底的に楽しむ。ん、まてよ。なんだやることがあるじゃないか。その先を考えるのは後だ。まずは今に集中すること。そこから始まるのだと思う。

 

つづく!!!