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コミュニケーションを取りたいな

※これは5/30の博多→下松間の高速バスで書いた記事です!

 

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僕は今、話したい

なぜなのだろうか、自分で気がついた時には、僕はスキルやお金の稼ぎ方など実用的なことに関することよりも、どうして人は〇〇するのだろうか、と言った内面の精神性を意識していた。日々いろんな方と話す過程でどうやら僕はこの精神性について熱く楽しく議論できる人といる方が楽しいと感じる。それが各々の経験から語られる話だとより、おもしれえな!となる。

 


以前、「シェイクスピアの英語教材」的な本を読んだ時に、序文かあとがきに興味深いことが書かれていた。シェイクスピアの作品は言葉遊びがふんだんに使われている(実際松岡和子さん訳の文庫にはたくさん脚注が使われている)。その背景には当時の時代背景が絡んでいるらしい。どうやらその本によると1600年前後のイギリスでは暇をつぶすことの1つに「おしゃべり」をしていたらしい。何だろうか、今イメージするならば下町のおじちゃんが街角であってから立ち話に花が咲いちゃう的なやつなのだろうか。その「おしゃべり」過程で言葉のありようが変わり、1つの単語に数個の意味が付いてくるようになった、のだという。

シェイクスピアの戯曲に書かれている言葉たちはある意味心理を捉えているものが多い気がする。それは「おしゃべり」という暇つぶしを重ねて研鑽した結果、まだ発見されていない感情や現象に言葉を見つけることができたからなのだろうか。もしそうだとしたらとても興味深いと思った。

 


稀に、話していてだんだん相手が「私とは何なのだろうか?」的な問いに入ってしまうことがある。これはもう禅病である。禅病とは本来自分見つめ直すはずの禅をしすぎて、悩みのループにはまってしまうことらしい。僕もよくハマりそうになる。こういう時は悩み尽くすよりも無理やり散歩や、食事や、歌い始めるのが僕にはよく効いた。初めはどれも悩んだまま始まる。ひたすら歩いているとだんだん足が疲れてきて「悩むとかそういうのより足痛い!」となり、カフェに入って休んで「お腹すいた!」となり、お腹いっぱいになってくると「レッツシンギング!」となり、もう考え事がどうでもよくなる。

 


言葉を改めるなら、僕は日々頭の中で「悩む」というよりは「問い」を投げかけている。悩むという言葉にはどこかマイナスな意味を感じる。他人が助けの手を差し伸べたくなってしまうような、解決することが正解のような、そんなニュアンスがある気がする。問いを続けることで、自分なりの説を作っていき、もしかしたら当てはまるかも!当てはまらないかも!を考える。これが結構楽しかったりする。このオリジナルの説を他人と共有できた時に生まれるあの感じがとても好きだ。頑張って上を見上げるわけでもない、自分を卑下して下に見ることもない。あくまでニュートラルでいることが精神性を意識する者にとってのアンサーになりうるのかもしれない。

 

 

 

面白いことに僕が出会った中で、自分の生き方を全肯定できる人間が数人いた。彼らもそれなりに考えているのだろうが勝手に自分で先に進んでいく。以前あった人は、一人暮らしが怖いと散々喚き、メチャクチャに泣いて、死ぬぅ!みたいになってたくせに次の日にはケロッとしちゃう人もいた。しかしこれはとても道理に沿っているなと思った。感情を出し切るという行動そのものもそうなのだが、答えは多分各々の中にあって、外側にあるのではないのだと思う。世間では「こうした方がいい」「こうするのが正解だ」的な人生攻略本が本屋だったりテレビだったりネットだったりに溢れている。そうしたものをキッカケにするのはいいと思うが最終的にたどり着くのは、「自分」が何を選択するのか、であることを忘れてはいけないのだと思う。勝手な偏見だが自分で先に進んじゃう系の人は世間の動向に疎く、型破りなクレイジーさが漂ってる(気がする)。そして自分の好き勝手生きているように一見みられるものの、そこには自らへの奢りや見せびらかしの態度はなく、自分であることの誇りが見える。いろんな人がいて、この世の中は回っているのだろうなと思う。ので、僕みたいな謎の生き方をしている人がいてもいいのかも!と自分に圧倒的肯定感を出してあげています!

 


上に書いてあるようなことを昨日福岡のゲストハウス「TONAGI hostel&cafe」のJさんとお話ししていて思って、思い出した。とても話していて楽しかった。また会って、お互いに新たに発見した感情や世界の見方を話し合いたい。福岡へ来た時はここに来ればいい!的な安心感を得ることができたので今回の福岡出兵は成功したのではないだろうか。昨日買った『夜と霧』をJさんに手渡して去る。

 


そして山口ついた今、防府の道の駅にてひまわりとガーベラを買ってもれなく残金が0になった。残金がなくなったことよりも、お花が安く、しかもいっぱい買えたことが嬉しい。東京だと同じ量で1500円くらいする。さてこのお花を持っておばあちゃんの元へ馳せ参じようではないか。

 


つづく!!